弱さを克服していく男たち 評・武田双雲(書道家)
楊令伝
岳飛伝

 文字とはなんと不思議なものであろうか。紙に印刷された無機質な文字の列を読むだけで、世界が広がってゆく。あたかも自分がそこに存在しているような錯覚を起こす。まるで魔法みたいだ。

 人類は頭の中にある「概念」を言葉にした。その言葉を目に見えるよう具現化させたのが「文字」である。概念を文字の中に閉じ込めるとともに、文字を読むことで概念を解凍し取り出すこともできる。人類は、こうした文字という変換技術を習得した特異な生き物である。そして、その文字をただ意識交換のツールとして使うだけでなく、未体験の新しい世界へとわれわれを導くのが作家だ。

 文字を紡ぐアーティスト、北方謙三氏は読み手の鼓動を高ぶらせ、中毒にさせる。命をかけて戦う男たちを描かせたら、右に出るものはいないだろう。

 私は運良く、前シリーズ『楊令伝』と、このほど単行本化が始まった『岳飛伝』の題字を書かせていただいた。北方謙三ワールドをどのように書で表現しようか、悩み、そして興奮した。命をかけて戦う男たちの葛藤と、弱さを克服していくプロセスが私にはたまらない。特に岳飛と楊令の関係性に引き込まれる。

 岳飛を通して見る楊令が魅力的だ。岳飛は自分よりはるかに強い存在と出会ってしまうことで、自信を打ち砕かれる。もがき苦しむ中で、新たな強さを手に入れていくプロセスがまた、たまらない。もちろん、他にも体が熱くなるシーンはたくさんある。

 どうしたら、この熱き北方ワールドを書で表現できるかと悩むうち、ふとひらめいた。「そうだ、俺自身も弱く脆(もろ)い存在であり、強くあろうと必死で戦ってきた。仲間のために何か役に立ちたいという衝動もあった。人生をかけて書に取り組もうと決めた日があった。だったら、自分らしく書けばいいじゃないか」

 瞬間、筆が自然と走った。そして、あの書ができあがった。そう、楊令伝も岳飛伝も、私自身の中に在ったのだ。私はこれからも、北方ワールドからさまざまな「気付き」を得ていくだろう。

(産経新聞 2012年7月22日掲載)