浮雲心霊奇譚

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神永学が贈る怪異謎解き時代劇
『浮雲心霊奇譚 白蛇の理』

 ざあっ──。
 音を立てて雨が降り出した。
 得意先に反物を届けに行った帰り道だ。
 八十八は、着物の裾をたくし上げ、雨宿りのできる場所を探して走り出した。
 地面を踏む度に、びしゃびしゃと泥水が飛び散る。
 少し先に寺の門が見えた。
 これ幸いと、八十八は門を潜り、寺の本堂の軒下に駆け込んだ。
 それほど古くはないが、住職がずぼらな人なのか、廃寺になっているからなのか、庭には草木が生い茂り、荒れ放題になっていた。
 着物はびしょびしょだし、草履も泥水でぐちゃぐちゃになっている。
 夏の夕立ならともかく、秋の冷たさを帯びた雨だ。身体の芯が冷えて、思わずくしゃみが出た。
 見上げると、空は濁った雲に覆われていて、相変わらずざあっ──と音を立てて大粒の雨が降り注いでいる。
 ピカッと稲光がしたかと思うと、ずどぉんと腹に響くような雷鳴が轟いた。
 かなり近いところに、雷が落ちたようだ。
 この調子だと、しばらく雨は止みそうにない。
「参ったな……」  八十八は、ため息と共に漏らした。
 得意先を出るときから、雲行きは怪しかった。「傘をお貸ししましょうか?」と言われたのだが、家に帰るまではもつだろうと楽観して断わってしまった。
 やはり借りておけば良かった──と悔やんでみたものの、今さら手遅れだ。
 しゅるしゅる──。
 足許で音がしたかと思うと、ひんやりとした何かが触れた。
 視線を落とした八十八は、思わずぎょっとなった。
 足許を蛇が這っていた。
 ただの蛇ではない。
 身体を覆う鱗が、まるで真綿のように白い蛇だ。
「わっ!」
 八十八は思わず足を除ける。
 白い蛇は、しゅるしゅると流れるような動きで叢を縫うように進み、寺の本堂の縁の下に潜っていった。
 蛇は、昔から神の使いだと言われている。しかも、非常に珍しい白い色をしていて、寺に棲んでいるのだとしたら、まさにさっきの蛇は、そうしたものかもしれない。
「お困りのようですね──」
 不意に背後で囁くような声がした。
 八十八が、吃驚しながら振り返ると、すぐ後ろに一人の女が立っていた。
 睡蓮の描かれた華やかな着物に、艶やかな化粧を施し、まるで浮世絵から飛び出してきたような、何とも美しい女だった。
 寺の軒下に佇むには、あまりに不釣り合いな気がする。
「風邪をひきますよ」
 女は、切れ長の目をすっと細めながら八十八を見た。
「…………」
 八十八は、女の美しさに目を奪われ、返事をすることができなかった。
 そんな八十八を見て、女は顎の下にある黒子に手をやりながら、ふふふっと柔らかい声で笑った。
「濡れたままで、こんなところにいては、風邪をひきますよ」
 再び女が言った。
 どういうわけか、女の声は、甘い香りがした。
「あっ、はい」
「どうぞ、中にお入り下さい」
 女は、すうっと白い指で、寺の本堂の戸を指差した。
 戸は、大きく開け放たれたままになっていた。
「いえ、しかし……」
 八十八は困惑する。
 この状況だ。建物の中に入れてもらえるのは有り難い。だが、雨を凌ぐ為に、寺の本堂に入るということは気が引けた。
 それに──。
 女の素性が知れない。
 身なりからして、寺の人間というわけでもなさそうだ。
 黒船の来航以来、攘夷だ何だと、何かと物騒な事件が起きている。相手が女とはいえ、簡単に信用してついて行っていいものだろうか?
「さっ、どうぞ。お身体が冷えてはいけません」
 女は八十八の心中などお構いなしにそう告げると、さっさと本堂の中に入っていく。
 ざあっ──。
 ざあっ──。
 相変わらず雨は降り続いている。
 怖さはあった。
 それなのに、なぜか、八十八の足は女のあとを追いかけていた。まるで、見えない何かに引っ張られているような感覚だ。
 本堂に入ると、ぷつりと雨の音が止んだ。
 薄暗い堂内には、燭台が一つ置かれていて、薄い明かりを揺らしていた。
 その頼りない明かりに、本尊と思しき観音菩薩が照らされていた。その顔は、どことなくさっきの女に似ている気がした。
「あれ?」
 八十八は首を捻る。
 女の姿が見当たらない。
 先に入ったのだから、本堂にいて然るべきなのに、どこを見回しても、その姿が見えない。
 いったい、どこに行ったのだろう? 八十八の疑念を断ち切るように、バンッと音がして、本堂の闇が濃くなった。
 振り返ると、本堂の戸が閉まっていた。
「どうかされましたか?」
 耳許で声がした。
 八十八は、ビクッと身体を震わせながら顔を向ける。いつの間にか、女が八十八のすぐ傍らに立っていた。
 甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「い、いえ……その……」
 八十八はもぞもぞと口にしながら、ゆっくりと後退り、女と距離を置いた。
 女は、そんな八十八を見て、赤い唇を歪め、艶やかな笑みを零した。
 とくんっと音を立てて心臓が跳ねる。
 女の笑みは美しい。美しいが、同時に恐ろしくもあった。
「そんなに怖がらないで下さい」
 女は、柔らかい口調でそう告げると、すっと八十八に歩み寄る。
 離れようと、さらに後退りした八十八だったが、戸に行く手を阻まれてしまった。
「わ、私は……」
 何かを言おうとしたが、思うように言葉が出て来なかった。
「実は、あなた様にお願いが御座います」
 女は切れ長の目を、真っ直ぐに八十八に向けると、息がかかるほどに顔を近付けて来た。
 甘い女の香りが、より強くなる。どういうわけか、考える力がどんどん失われていくような気がした。
「お願い?」
「はい。あるお方を捜して欲しいのです」
 女はそう言った。
「誰を捜すのです?」
「ええ。この寺の住職だった、宗玄という方です」
 ──どういうことだ?
 八十八は、困惑せずにはいられなかった。
 どうして、この女は、寺の住職など捜しているのだろうか?
 もしかして、その住職の縁者なのだろうか?
 そもそも、なぜたまたま通りかかっただけの八十八に、人捜しを頼むのだろう?
 八十八の頭に、数多の疑念が浮かぶ。
 しかし、女は八十八の心情などお構いなしに話を続ける。
「もちろん、只でとは申しません」
 女は、わずかに俯き頭を振る。
「い、いや、私は……」
 別に八十八は、金を欲しているわけではない。
 しかし、女は話を続ける。
「生憎ですが、私には今、お金をお支払いすることができません」
 女は、そう言って八十八に背を向けた。
 八十八は、ふうっと息を吐く。どうやら、女に見られている間、ずっと息を止めていたらしい。
「ですから、お金の問題では……」
 八十八が声をかけると、女は「分かっております──」と、囁くような声で言った。
 いったい、何が分かっているというのだろう?
 何だか、女との会話は、ちっとも嚙み合っていないような気がする。
「お金の代わりといえば、これくらいしか御座いません──」
 女はそう告げるなり、するすると着物の帯を解いていく。
 はらりと鮮やかな色の帯が床に落ちた。
 ──え?
 八十八が、驚いて固まっている間に、女の肩から着物がするりと滑り落ちた。
 蠟燭の薄明かりの中、絹のような白い肌が露わになる。
「な、何を……」
 八十八は、額に汗を浮かべながら、そう発するのがやっとだった。
「捜して頂くお礼で御座います──」
 女は、そう言うなり八十八に身体を向けた。
 丸みを帯びた女の裸体は美しかった──視線が吸い寄せられるが、八十八はそれを断ち切るように顔を逸らした。
「お礼を求めているわけでは……」
 八十八はもぞもぞと言う。
 そもそも、人捜しを引き受けると言っていないにもかかわらず、お礼などと言われても困る。
 それに──金の代わりに、身体など差し出されるのも困る。
「まだ、女を知らないのですね」
 そう言いながら、女が白い指で八十八の頰を撫でる。
 ひんやりとした女の指の感触に、固まっていた身体には、余計に力が入る。
 顔を逸らしているので、女の表情は見えない。だが、言葉の雰囲気から察して、笑っているようだった。
 今、女が言ったように、八十八はまだ女を知らない。
 十六という年齢では、遅いというほどでもないから、恥じ入るようなことではないはずなのに、どうにも自分が情けなく思えてしまった。
「よいのです。私めが、あなた様に女を教えて差し上げます」
 女は、八十八の耳許で囁いた。
 甘い息が耳にかかり、八十八は背筋がぶるっと震えた。
 全身の力が抜け、そのまま倒れてしまいそうになったところで、青白い光が寺の本堂を照らした。
 間を置いて、ゴロゴロッと大気を震わせるような、雷の音が響き渡る。
 その瞬間、八十八は、はっと我に返った。
 ここに留まっていたら、取り返しのつかないことになる。そんな強い思いに襲われた八十八は、女に背を向け、本堂の戸を開けると、そのまま一気に駆け出した。
 自分でも、よく分からない叫び声を上げながら、雨の中をただ必死に走った──。
 頭の中には、一瞬目にしただけの女の裸体がこびりつき、振り払おうとしたが、そうすればするほど、鮮明になっていくような気がした。
 そんな状態だったので、どこをどう走ったのか、自分でもよく分からなかった。気付いたら、ずぶ濡れで家に帰っていた。
 姉のお小夜が、八十八の姿を見て、しきりに心配していたが、詳しい事情を話す気にはなれず、着替えを済ませて、さっさと自分の部屋に籠もった。
 布団に横になり、目を閉じると、やはりあの女の裸体が浮かび上がってくる。
 初めて目にする女の裸体に、酷く動揺した。
 だが、こうして改めて思い浮かべると、その白く、なだらかな曲線を描いた裸体は、八十八がこれまで見たどんなものより美しかった。
 ──何と不埒なことを!
 八十八は自らを𠮟咤し、膝を抱えて丸まるようにして眠りについた。
 その夜──。
 夢を見た。
 それは奇妙な夢だった。
 八十八は、暗い寺の本堂に立っていた。
 観音菩薩像が鎮座している。今日、雨宿りしたあの寺だ──。
 本堂の柱に、白い紐のようなものが巻き付いていた。
 よく見ると、それは紐ではなく蛇だった。
 白い蛇が、柱に身を巻き付け、首だけもたげ、ちろちろと二つに割れた舌を出し入れしながら八十八をじっと見ている。
 冷たい視線に搦め捕られ、八十八は動くことができない。
 ──お願いが御座います。あるお方を捜して欲しいのです。
 淫靡な響きを持つ声がした。
 それは──あの女の声だった。
 ふと見ると、いつの間にか、柱だと思っていたものが、人の姿だったことに気付く。
 それは、あの女だった。
 衣服は着けていない。
 裸の女の身体に、白い蛇が巻き付いていたのだ。
 ──どうか。どうか。お願い申し上げます。
 蛇を巻き付けたまま、女が言った。
 八十八は、自らの悲鳴とともに目を覚ました。