沢木
『遥かなる水の音』を読ませていただきました。
村山
ありがとうございます。
沢木
この前の作品というと『ダブル・ファンタジー』ということになるのかな。あれを書かれてから、どれくらいの間があるんですか。
村山
実は『遥かなる水の音』の最初の二百枚ぐらいは『ダブル・ファンタジー』の前に書いているんです。その後、私生活面で激動の時期が訪れて、それまで住んでいた千葉・鴨川の家を飛び出したら、なぜか『遙かなる水の音』が、今はこの先を書けないという精神状態になってしまって。間に挟んだ『ダブル・ファンタジー』の執筆に丸二年かかりましたかね。
 
沢木
丸二年中断して、そこから再開するのは難しくなかったですか?
村山
結構難しかったです。何を書こうと思っていたか、忘れちゃったぐらい(笑)。サハラ砂漠に自分の遺灰をまいてくれという周の遺言を達成しに行くわけですから、ある意味でラストは決まっているわけなんです。ところが、そこまでの間に、何をテーマに書こうとしていたんだっけ? とか、どういう読後感を味わってほしくて書き始めたんだったけ? ということが、しばらく体に戻ってこなくて。  逆に新鮮だったのが、最初に書いた部分を読み返していたときですね。私ではない誰かが書いたもののようで、結構うまく書いているじゃないかと自画自賛してみたり(笑)。
沢木
ほんと、確かにそういうことってあるよね(笑)。それから読んで驚いたのが、彼らのたどった道というのは、僕がモロッコでたどったのとほとんど同じだったということです。
村山
えっそうなんですか?
沢木
僕は先にカサブランカへ行ってから、その後でマラケシュに行って、以降はほぼ同じルートなんですよね
村山
アトラスを越えてサハラへ行かれたんですか?
沢木
うん。僕のモロッコへの旅は、三週間ぐらいしかかけていないんだけど、それはそれですごく濃密な感じがしました。
村山
長さではないんですよね、きっと。
 
沢木
僕は七、八年前、『FRaU』という雑誌にその紀行文を書いているので、今日、ここに来る前にその切り抜きを読み返してきたんですよ。まだ本にしないで、放りっぱなしにしてあるもんでね。
村山
ああ、もったいない(笑)。
沢木
で、やっぱり旅のありようというのは、人によっていろいろ違っているな、と。村山さんがモロッコに行ったのはいつでした?
村山
もう四年前になりますかね。
沢木
小説を書こうと思ってモロッコに?
村山
はい。今までの旅のほとんどがそうでした。でも書くために仕方なく行くわけではないんです。小さいときからあこがれていた土地だったら、長い小説を書く間、私の“石炭”になってくれる気がして、そこを舞台にしようと思って行く。行って、楽しんで、それをまた小説にできるということですから、すごくラッキーな話なんですよね。
沢木
旅で実際に経験したものや見てきたものをフィクションに変形していくときに、それをどういうふうに接合したり分離したりしていくんだろう? もちろん、シンプルに考えれば、素材としてそれをさまざま使うということなんだろうけど。
 
村山
自分の中でどういう核融合みたいなものが起こっているかはよくわからないんですよ。帰ってきて小説にしようと考えている最中ぐらいまでは、まだ核融合が起こってないから私個人の体験になっているんです。  そこからキャラクターが立って、この人がどう動くことによって、どんな読後感を残したいのかということを考え始めたときに、そこですり合わせのようなものが行われる。で、あの体験を少し加工したらここに差し入れられるんじゃないかと思って描写し始める。その途端に私の体験ではなくなって、彼の体験、彼女の体験になっていくんですね。
沢木
なるほど。
村山
答えになっていないですね(苦笑)。
沢木
いや、そんなことはありません。でも、どういう読後感を残したいとか、何を書きたいのかっていうのは、あるとき、ふっとわかったりするものなの?
村山
旅の最中にわかるときもあれば、終わるまでわからなくて不安にかられるときもあります。
沢木
『遥かなる水の音』の場合は?
村山
サハラの夜に降ってきました。
沢木
夜、砂漠のなかのベルベル人のキャンプに行くという設定がありますよね。実際それに近いことをしたわけですね。
村山
そうですね。キャンプに到着してから、夜中に一人で散歩に出たら、砂丘の中腹で疲れて眠りこんでしまって。見つけて起こしてくれたトゥアレグ族のラクダ引きの青年と二人で砂丘のかなり上まで一緒に上がりました。いろいろ話すうちにふと、彼にひざ枕をしてほしいと言われてそうしたときに、それまで私の外側にあったモロッコが、膝からいきなり私の中へすとんと入った気がしたんですよ。あっ、これで書けるかもしれない、と。それはまったく何の根拠もなくて、そこでストーリーの全部ができ上がったとか、そんなことじゃないんですよね。何でしょうね。
沢木
それはわかるような気がする。その体験によって、皮膚を通してというか洋服を通しているんだけど、モロッコの体温のようなものが感じられた。そういうことなのかな?
村山
はい。
沢木
それはもう圧倒的な体験だよね。