逢坂 蔡國強さんは、中国の福建省泉州市生まれで、1986年に日本に移住されました。この頃の中国は、文化大革命が終わって、まだまだ芸術活動が自由にできなかった時代。そこで蔡さんは、自由な表現活動の場を求めて来日します。
日本での蔡さんは、芸術家としての知名度もなく、つてもなく、日本語も上手く話せないなかで、果敢に自分の作品表現に向き合って、いわき市の公立美術館での個展が開かれるほどの実績を積まれました。その後、1995年にアメリカ・ニューヨークに渡り、今や現代アートシーンで世界トップクラスのアーティストとして大活躍をされています。 蔡さんの作品の大きな特徴は、火薬を使って絵を描くということ。つまり、火薬を爆発させて、その痕跡を絵として表現するんです。武器などで破壊に用いられる火薬をアートに使用するわけです。上海のAPEC(2001年)や、北京オリンピック(2008年)の開会式で打ち上げられた花火も、蔡さんが芸術監督として演出されたんです。
1993年頃、蔡さんが、一般の方たちと自分の作品をつなぐという意味で、こういう言葉を考えました。
「この土地で作品を育てる」「ここから宇宙と対話する」「ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」 「この土地で作品を育てる」というのは、その土地の歴史や人間の営みを自分の作品に反映していくということ。「宇宙と対話する」というのは、国境や人間の対立を超えて、もっと大きな視点から物事を考えるということ。そして、「ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」というのは、自分一人ではなく、多くの人たちを巻き込んで、一つのプロジェクトを完成させるということです。
現代美術について聞くと、多くの人がよくわからないという。でも、現代美術の作家は過去の作家と違い、今の社会、政治、経済、教育、全てのことを含み、私たちと時代を共有しながら作品をつくっている。だから、実際は「わからない」のではなく、「わかろうとしていない」のではないかと私は思います。中国出身の蔡さんは、多分私たち以上に美術表現の〝難しさ〟を感じることが多かったと想像できますし、そこから「多くの人たちを巻き込む」という発想が生まれたのかもしれません。
私が蔡さんと初めてお会いしたのは1990年頃で、横浜美術館での個展(2015年)は、私から是非にとお願いして実現しました。美術館内で火薬を使うことはできないと考え、古い工場など、活動できる場所を探そうとしたのですが、蔡さんが横浜美術館に来て、「逢坂さん、このなかでできるよ」といわれて驚いたんです。確かに、横浜美術館は、建築家丹下健三が設計した非常に重厚な石づくりの建物です。グランドギャラリーという大きな空間があって可燃物がない。結果、そこで火薬絵画の制作を行いました。
まず蔡さんが絵を描き、それをカッティングシートに起こして型紙をつくる。次に、線の部分をくりぬき、そこへ火薬をまく。そして火薬を燃やすとその線が痕跡になって絵画になるわけです。火薬絵画は限られたメディアの方や関係者を呼び、NHKが中継しました。ある美術館の館長さんには冗談で、「普通、美術館の館長は、こういうことを止めるのが役目なんだよ」といわれました(笑)。