それが、安心して読んでいた読者に、不安を与えることになったらしい。私のもとに、助命嘆願の手紙などが舞いこむようになったのである。
 実は、作者は登場人物の生殺与奪の権を、完全に持っているとは言い難い。特に、よく書けたと思う人物については、そうなのだ。物語の中で立ちあがり、生き生きとしはじめると、独自の考えや感性を持ち、自分で生き方を決めてしまう。そっちへ行くと死んじまうぞと思っても、作者の制御などはまったく利かず、死にむかって突っ走っていったりするのである。
 うまく描きあげた人物が死んだりすると、私は読者以上に落ちこんだかもしれない。漢がひとり死んだ夜は、ウイスキーの封を切り、翌朝にはそれが空っぽになっていることも、一再ではなかった。『水滸伝』の男たちへの弔い酒で、私の肝臓はかなりダメージを受けたはずである。
 梁山泊の聚義庁の入口に、晁蓋という最初の棟梁のほか、百八名の名札が掛けてある。黒い字で書かれているが、死んだら札が裏返され、赤い字に変るのである。最初はいいアイデアだと自画自賛していたが、途中から札を裏返すのがつらくなった。なぜこんなことを書いてしまったのかと、悔んだほどである。
 巻が進むと、付き合いも長くなる。当然、弔い酒の量も増える。二十巻を超えたら、私を待っているのは、アルコール依存症だったに違いない、と確信している。
 泥縄を、ひとつやった。渾名である。
 登場人物には渾名がついていることが多く、百八人には当然全部ついている。しかし、わかりにくい渾名も多い。イメージが湧く渾名だけ使おう、と私は思った。これも、自分の好きなあの漢に、渾名をいつつけてくれるのか、という質問をしばしば頂戴するようになった。意味がしっかりわかろうとわかるまいと、渾名で愛されていることも少なくない、ということもわかってきた。
 やはり全員にあった方がいいと思い、宋江などを名づけ親にして、渾名を次々に与えていったのは、後半に入ってからである。
 テーマの中心に置いた、反権力という思想は、完結まで揺らぐことはなかった。
 宋という国は、鉄と塩の専売をやっていて、これが権力の象徴でもあった。梁山泊が闇塩の道を作りあげると、即ちそれは反権力ということになったのだ。闇塩の道については、大成功したと、私は自負している。
 そういう、創作上のエピソードだけを書き連らねても、本が一冊できそうである。
 もうひとつだけ書いておくと、二世たちにも、かなり熱心な視線をむけた。闘いは、継承されるのか。思想は、志は、血のように受け継がれていくのか。これも、私が抱いていたテーマのひとつだったのである。
 続編を出すために、二世を次々に誕生させている、と担当の編集者などは痛し痒しの顔をしているが、十九巻の完結までに、継承されるべきものは、すべて継承させた。それも人によるわけで、継承されない、できないものもまたあるのだ。
 一万枚に及ばんとする作品を書きあげたことで、私がなにを得て、なにを失ったのか、まだわからない。厖大なエネルギーを、消費した。同時に、書き続けるという行為から、なにかを得ていることも確かなのだ。
 四十代のころ、私は『三国志』を二カ月に一冊のペースで書き下し、それは十三巻に達した。疲弊は激しかったが、それだけ書いても燃え尽きはしないのだ、という自信のようなものも抱くことができた。
 五十代には、五十代の体力がある、と思った。だから、『水滸伝』は、はじめ四カ月に一冊のペースだった。しかし途中から、三カ月に一冊のペースに上がった。それで苦しいということもなかった。

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