中国英雄編に登場する「故事成語」
左遷
背水の陣
四面楚歌
  左遷
紀元前206年、劉邦との「鴻門の会」を終えた項羽は、圧倒的な武力で中国統一王朝秦を滅ぼし、その都咸陽を焼き払った。項羽はその後間もなく中国全土を分割し、お気に入りの武将達を王に取り立てて思うままに領地を分配したが、項羽は秦打倒の立役者劉邦には荒涼たる辺境の地漢中を与えるに留まった。漢中は咸陽の西、地図上では左に在る。これが「左遷」の語源といわれている。
 
  国士無双
紀元前205年、劉邦は項羽が遠征中の隙を見て挙兵するが、失敗し、追い詰められる。その時漢中(劉邦の納める地)の丞相の簫何という人物が、のちに劉邦に仕え、大いに貢献する韓信を評して言った言葉として知られる。彼は韓信を「天下第一の士、比類なき人物」であると高く評価し、劉邦に対して「いつまでも漢中の王で満足するのならば韓信を用いるに及びませんが、必ず天下を争奪しようと望まれるなら、韓信をおいて他に事をはかるものはおりません」と進言した、とされる。
 
  背水の陣
漢軍が趙という国を攻撃した折、劉邦に戦を託された韓信は20倍もの敵に勝つため作戦を立てた。2千の兵を敵城の近くに伏せ、残り1万の主力軍は川を背後に陣をしき、兵法では逃げ場をなくしてしまう為タブーとされる作戦で自ら軍の退路を断った。敵方(趙軍)は陣形・数的有利を理由に油断し全軍で総攻撃をかける。しかし、背水の陣で臨んだ漢軍は、目前の敵を倒すしか生きる道はないという究極の状況に追いつめられたことで死に物狂いで戦う。まんまと敵の全軍をおびき出し敵城を奪い心理的優位に立つと、挟み撃ちにして敵を撃破した。
 
  四面楚歌
紀元前202年、60万もの兵で迎え撃つ劉邦軍の指揮をとる韓信は、項羽軍10万を四方を山々で囲まれた土地におびき寄せ、60万の兵で囲むことに成功する。数的有利ではあったが、磐石の勝利を収めるため、劉邦の腹心張良が秘策を立てた。「四面楚歌」の楚歌にあたる部分がその秘策で、巧妙な心理作戦であった。その夜、60万の劉邦軍が項羽軍の故郷楚の歌を歌い始めた。その歌は大合唱となり垓下の平原に響き渡り項羽軍は戦意喪失したとされる。

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